鎌倉時代 活躍した名馬「するすみ」 名馬「するすみ」 誰の馬? 馬 鎌倉時代

名馬「するすみ」 誰の馬?

大田区南込に、曹洞宗の萬福寺があります。ここに来た人は、まず立派なの像に注目するでしょう。
唐突に現れる凛々しいの立像。それと同時に、このの像は何者なのか気になるところです。
台座に注目しますと、「磨墨」の文字が見えます。ここで気が付く方もいらっしゃるかもしれません。そうです。鎌倉時代の武将、梶原景時と共に活躍していた名「するすみ」なのです。


梶原景時は、鎌倉時代の武将。源頼朝の重臣として知られます。
源平の戦いでは義経・範頼と共に出陣し、富士川の戦いや一ノ谷の合戦で武勲を上げました。



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変な名前の名馬「するすみ」

萬福寺は鎌倉時代の武将、梶原景時由来のお寺です。
建久年間(1190)頃、梶原景時は頼朝の命を受けて開山。
品川区大井の辺りにあったものを、後世火災のために現在の地へ移転しました。
たくさんのお墓が並んでいますが、その中に五輪塔を見つけることができます。これが梶原景時のものと伝わる墓なのです。


変な名前の名「するすみ」。
墨を磨ったように黒かったことから、源頼朝が「するすみ」と命名しました。
どうやらこのは、梶原景時の息子景季が頼朝から賜ったもので、本当は頼朝の愛「生ずき」(池月とも)を所望していたのに、代わりに「するすみ」が来てしまったようです。
頼朝は「生ずき」の方を手放そうとせず、所望する景季に「劣らぬぞ」なんてごまかして「するすみ」を与えたわけです。(『平家物語』第九「生ずきの沙汰」)

萬福寺入り口にある名「するすみ」像は勇ましく、名の名にふさわしい出で立ち。
ところが可哀そうに、誤って平張谷に落ちて死んでしまったそうです。
萬福寺から南に磨墨塚があり、ここに駒形の庚申塔を見ることができます。
しかし家の建ち並ぶ中にあるので、わかりにくいかもしれません。
せっかくならば、梶原景時の側に葬ってあげればよかったのにと思うところですが、「するすみ」についての逸話は他県にも残されており、本当にこの塚に葬られたのかは不明です。
「するすみ」は、この地、込の産だったと伝わります。


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文武両道 文人室生犀星にも注目

梶原景時ゆかりの萬福寺。他にも見逃せないポイントが。

ここは板碑が30基ほど発見され(非公開)、これだけ多くの板碑が見つかるのは稀だと言います。考古学的にも非常に重要な場所でもあるのです。
そして特に注目したいのが、室生犀星の二つの句碑。
室生犀星は詩人として有名ですが、1928年から込付近に移り住み、1932年から萬福寺の西隣りに居を構えていました。

 陽炎「葱の皮 はがれしままに かぎろひぬ」
 笹鳴「笹鳴や 込の垣も まだらにて」

萬福寺中央の広場と、梶原景時の墓に近い所と、二ヶ所に見られます。この句からも室生犀星がこの地に愛着を持っていたことがわかります。

込文士村は、文学者たちに大変人気のあった場所。
奇しくもこの地の名には「」が付きます。
鎌倉時代に活躍した武士のと、この地を愛した文学者の面影。
文武両道の精神をここで感じてみてはいかがでしょうか。


鎌倉時代 名馬「するすみ」について

馬 鎌倉時代

変な名前の馬「するすみ」

「するすみ」はちょっとかわいそうなかもしれません。
梶原景季が本当に欲しかったのは「生ずき」のほう。「するすみ」はしぶしぶもらったという感じですし、最期は谷に落ちて死んでしまうのですから。
普通って谷から誤って落ちるなんてことがあるのでしょうか。
しかし「するすみ」像を見る限り、立派なだったに違いありませんね。

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